日本の役所や企業では、今もファクスの受信音が聞こえてきます。電子メールやチャット、クラウドサービスが当たり前になった時代に、紙を送り合う機械がなぜ使われ続けているのでしょうか。政府はこれまで、ファクスやフロッピーディスクといった古い仕組みからの脱却を何度も掲げてきました。しかし特にファクスは、改革を進める側の想定をはるかに超えるしぶとさを見せています。
霞が関の全廃計画はなぜ頓挫したのか
ファクス廃止が大きな話題になったのは、当時の行政改革担当大臣が霞が関の全省庁に対し、ファクスの利用を原則としてやめ、電子メールに切り替えるよう求めたときでした。狙いはテレワークの推進です。ファクスがあると、届いた書類を受け取るために職員が職場にいなければならず、在宅勤務の妨げになると考えられたのです。大臣は、惰性で使っているだけのファクスはやめてほしいと呼びかけ、残す必要がある場合は各職場の実態に合わせて個別に判断するとしていました。
ところが各省庁からは、約400件もの反論が寄せられました。多かったのは、メールではハッキングや情報漏えいのおそれがあるという意見や、安全性を確保するには新しいシステムの導入が必要だという指摘でした。通信環境への不安を挙げる声もありました。結局、政府は全廃を事実上断念し、一定の利用を認める方針に転じました。
フロッピーディスクは先に退場した
一方で、デジタル化がすべて止まったわけではありません。デジタル庁は、目視や対面、書面での手続きを前提とした「アナログ規制」の見直しを進め、およそ1万件の規定を点検しました。その中には、申請や届け出にフロッピーディスクなどの記録媒体を使うよう定めた規定が1000件以上含まれていましたが、そのほぼすべてが廃止されました。CDやMDなど、今ではほとんど見かけなくなった媒体を指定する規定も含まれていました。
記録媒体の規定は、法令を書き換えれば解決できる問題でした。しかしファクスはそう簡単ではありません。規則で決められているというより、長年の習慣や取引先との関係の中で使われているからです。
相手がファクスなら自分もやめられない
ファクスがなくならない最大の理由は、送る側と受け取る側の両方がそろって初めて廃止できる点にあります。自分の組織がデジタル化を進めても、取引先や住民、ほかの機関がファクスで書類を送ってくる限り、受信の手段を残さざるを得ません。飲食店と卸売業者の発注、医療機関と薬局のやり取り、地方の小さな事業者との連絡など、手書きの書類をすぐに送れるファクスは今も多くの現場に根付いています。
新型コロナウイルスの流行時には、医療機関から保健所への感染者の報告がファクスで行われ、集計の遅れが問題になりました。国はオンラインで報告できるシステムを導入しましたが、現場の負担や使い慣れた方法への信頼もあり、ファクスはすぐにはなくなりませんでした。
企業側にも事情があります。ファクス機能を備えた複合機を長期のリース契約で使っている場合、途中で解約すると違約金が発生することがあります。また、電話回線だけで送れて相手の手元に紙が残るファクスを、メールよりも確実だと感じる人も少なくありません。災害で通信網が混乱したときの連絡手段として、ファクスを残しておきたいと考える自治体や事業者もあります。
回線の変化が静かに背中を押す
それでも、ファクスを取り巻く環境は少しずつ変わっています。電話網のIP化によって、ISDN回線を使うG4規格のファクスはすでに使えなくなりました。一般的なG3規格のファクスは引き続き利用できますが、古い機器や回線の見直しをきっかけに、ファクスそのものをやめる企業も出てきています。
行政手続きでは、デジタル庁が運営する電子申請の窓口e-Govへの移行が本来の代替手段とされ、社会保険や各種の許認可など多くの手続きがオンラインで完結するようになりました。すぐに全面移行できない組織では、パソコンやスマートフォンでファクスを送受信できるインターネットファクスを使い、紙と機械だけを先になくす方法も広がっています。受信した書類をPDFとして保存すれば、検索や共有も簡単になります。
消えるのではなく姿を変える
日本のファクスは、一度の号令で消し去れるほど単純な存在ではありませんでした。それは技術の問題というより、多くの組織や人がつながる仕組みの問題だったからです。ファクスはある日突然なくなるのではなく、インターネットファクスや電子申請に役割を少しずつ譲りながら、姿を変えていくことになりそうです。改革者たちの計算を狂わせた古い機械は、職場のデジタル化が人と人との関係にどれほど左右されるのかを教えてくれています。日本の職場からファクスの受信音が完全に消える日は、思っているより遠いのかもしれません。